昨日の話の続き
さて、個人的にやることがひと段落と言ったが…5月に会社のイベントで喋るけど、その場で「新作」を披露するというのを思いついたので、それをやろうかな。 しかしLTで出張扱いになるのは、なんかいい会社だなあ笑
さて、個人的にやることがひと段落と言ったが…5月に会社のイベントで喋るけど、その場で「新作」を披露するというのを思いついたので、それをやろうかな。 しかしLTで出張扱いになるのは、なんかいい会社だなあ笑
RubyKaigiが終わったのと、お願いされていた書籍レビューが実は終わったので、なんか仕事の後でも特にやることがない状態。適当にいただいた本を読んだり、RubyKaigi前後で描きたくなったコードを書いたりしているが...。 なんか個人のタスクがガチでない状態って珍しいなw。何をすればいいかわからない...。隙間が発生している。 とはいえ…。 7月あたりからはどうやら仕事が異様に忙しくなる図が見えており戦々恐々としている...。こっちも8月に山を越えるといえばそうか。 そしてYAPC Fukuoka...。 個人の事情により今年提出するプロポーザルはあとはYAPC Fukuokaだけにしようと思っており(遠征試合はもうしない)。通るか、そもそも行けるんだっけ? みたいな話もあるが。 まあ11月はまだでぇじょうぶだよな。たぶん。行けたら1秒も欠かさずマスク装着してよ。 まあ、今今は、色々放心しよう。運動とかしよう。 ---- あと、アレだよな。来年はRubyKaigi行けないからな。 まあプロポーザル出すだけ出して通ったら1日だけしゃべりに行くというのも手か?
RubyKaigiの日記は? はい...。
pplogでざっと書いたんだけど永続化しといていいかなと思うのでまとめておく。 ・基本、自分で豆を買ってハンドドリップしたやつしか飲まない ・豆は福岡のスペシャルティコーヒーのお店のやつ(ハニー珈琲、REC COFFEE、マヌコーヒーあたり)+ 焙煎屋 のやつをローテで買ってる ・あと奥さんの実家からたまにデパートのコーヒー豆をもらえる。特に不満はないので、デパ地下にあるような豆屋は普通に良いんだと思う。 ・あと、朝しか飲まないことが多い。ハンドドリップをルーチンにしてる ・出張などのお土産の候補に「コーヒー豆」が入るのでいい話。しかし松山では買いそびれた。 ・自分で飲むとして、これ以上やり方に拘らないようにしている ・グラインダーまでは買ったが... ・自分で焙煎をすることは今後ないと思う ・ネルドリップ勉強するとかもない、と思う ・書いてるということは憧れはある、わけだが、まあしないと思うわ... ・お店で飲む時はある ・スタバ、上島珈琲店、コメダあたりで空いてたら入ることも。でも割とちゃんとしてそうなコーヒーショップを選ぶ傾向がある。ここでもハニー珈琲、REC COFFEE、マヌコーヒーはよく使う。 ・稀に外で買う ・近所のスペシャルティコーヒーのをテイクアウトする。買うとこは以前は2店舗あったけど今はアダチコーヒーだけになってしまった... ・缶コーヒー、ペットボトル他はあまり買わない ・コンビニコーヒーもほぼ買わない ・まあ自分で入れる方が好きなので... ・ただ、ローソンの猿田彦コラボは良かった。200円なのはコスパいい。 ・フラッペとか甘いやつはまた別枠 「焙煎屋」は純粋に豆を売っているお店。お店にも卸してるようだが、警固と平尾にあって一般人がふらっと買うこともでき便利。
まあ、なんだって感じだが。ハンドドリップ、気持ちが落ち着くのでおすすめ。あと1日1杯に抑えるのもおすすめ。
例えば縄文土器のようなものがあって、僕は心を動かされるなと思うわけだけど、新しいところは全然ない。むしろその後の時代の陶芸と比べるとものすごく技術レベルは劣る。本気で、あれは土をこねて焼いただけなので。しかしいや、なんかう〜ん、いいね、と言う感情の存在を否定できない(どう言う感じかは、「ヘうげもの」を読もう!)。 こう言うのは想像力の問題で、例えば縄文人の生活に理想を描いて創造して良さを覚えていたりすることが考えられそう。 (そう考えると美術作品も、あるいは例えば小説・詩も、過去の作品なんだから今の人間から見て新しいところってないわけだ。だから新しいこととか新規性を特異的に取り立ててるのが何かおかしいのだろうなあ)
また、例えば僕は息子や娘の作ったもの、図工の作品とかそう言うものでも「良さ」を覚える。これはもちろん、技術に心を打たれているのではない。と言うか、僕や僕の妻や親族でもない限り、そうそう良いとは思わないだろう(いやまあ、子供の絵を見て「良さある」って思うことは間々あるけどね)。 これは関係性がある結果、作った人の感情や背景を想像して共感し、良さを汲み取っているのに近いのかなとも思う。 今鑑賞している私と作者との関係がこのように重要であれば、「自分がやる意味」が重要なのはそれはそうだ。
そう考えると、そもそも美術の良さは、見た人が勝手に生み出していると思う(アウラとかの議論もまあ大きく言うとそう言う感じじゃなかったっけ...)。で、大前提として、美は超個人的なものなのでいいのではと思うのだが。 そして僕のこの論調も、美術を割と矮小化してるような危惧を感じたため、こう、美学ガチ勢や哲学ガチ勢の皆様の高説をいただきたい...。