I want a range life...

メモ

例えば縄文土器のようなものがあって、僕は心を動かされるなと思うわけだけど、新しいところは全然ない。むしろその後の時代の陶芸と比べるとものすごく技術レベルは劣る。本気で、あれは土をこねて焼いただけなので。しかしいや、なんかう〜ん、いいね、と言う感情の存在を否定できない(どう言う感じかは、「ヘうげもの」を読もう!)。 こう言うのは想像力の問題で、例えば縄文人の生活に理想を描いて創造して良さを覚えていたりすることが考えられそう。 (そう考えると美術作品も、あるいは例えば小説・詩も、過去の作品なんだから今の人間から見て新しいところってないわけだ。だから新しいこととか新規性を特異的に取り立ててるのが何かおかしいのだろうなあ)

また、例えば僕は息子や娘の作ったもの、図工の作品とかそう言うものでも「良さ」を覚える。これはもちろん、技術に心を打たれているのではない。と言うか、僕や僕の妻や親族でもない限り、そうそう良いとは思わないだろう(いやまあ、子供の絵を見て「良さある」って思うことは間々あるけどね)。 これは関係性がある結果、作った人の感情や背景を想像して共感し、良さを汲み取っているのに近いのかなとも思う。 今鑑賞している私と作者との関係がこのように重要であれば、「自分がやる意味」が重要なのはそれはそうだ。

そう考えると、そもそも美術の良さは、見た人が勝手に生み出していると思う(アウラとかの議論もまあ大きく言うとそう言う感じじゃなかったっけ...)。で、大前提として、美は超個人的なものなのでいいのではと思うのだが。 そして僕のこの論調も、美術を割と矮小化してるような危惧を感じたため、こう、美学ガチ勢や哲学ガチ勢の皆様の高説をいただきたい...。

発表練習done

ほんと酷かった。つら... 当日がこれじゃなくてよかった。 とはいえ発表が無事終わっても、割と孤独な気持ちなんじゃないかって気もする。自分のやってることをわかってくれる人って少ないし、RubyKaigiならわかる人はいるけど強強ポンなプログラマで怖いので感想を聞く勇気が出にくいし...。

お仕事は、分かりやすいよね。スクラムで信頼できる仲間と一緒に、ソフトウェアアーキテクチャ上の困難に立ち向かう。課題を解決したら、同僚やユーザに喜ばれ、何よりお金で報われる。 そう考えるとOSSってなんでやってるの...? 大抵みんなボランティアだから濃い人間関係ってできないし、フリーライダーも多いし、なんかお金も報われなさすぎ...。 そういうことを思うのであんま人に強く勧めれない。軽くやってみれば? ぐらいは言うけど。 でも本気で成長したいなら、抽象度の高い課題から逃げずにやらないとダメで、そう言うのは大抵OSSにあるのはそうなんだよな。つまりミドルより下に触れられないと成長できない。これは単に低レイヤと言うより、*アーキテクチャ的に*ミドルより下と言うこと。なのでフロントエンドであっても存在しうるレイヤのはず。

スライド作ってる

RubyKaigiに来る酔っ払いの皆さんへ。

英語とかの話

RubyKaigi、2022年の参加あたりからあまりに仕事が忙しかったので資料作りの省力化に余念がなかった。2024年からはもうスライドの英語はほぼAIに任せていた。 2025年の今は、 - 日本語でスライドをつくる - 日本語でそのスライドを使って一回発表する - その発表を文字起こしする - その文字起こしをなるべく忠実に、Geminiに英語にさせ、スクリプトにする - 一方、Cursorにruleを読み込ませ、日本語スライドの構造を保ったまま英語にする これでとりあえず当日は発表できる状態にできた。 若干計測結果とかが足りてないのでその辺をちょいちょいやるだけで、ここまできたら極論RubyKaigi期間中からでも終えられる。

んで、ここまで英語発表の障壁がなくなると、RubyKaigiのような場で日本語で発表する言い訳がどんどんなくなっていくよなって思う。 僕は英語全然できないんだけど。 - 英文を読んで、ざっくり概要をつかめるし、見当違いのことを言ってないかはわかる - 発音はまるっきり正しくないけど、「どうすれば正しい発音になるか」の理論は理解している という感じのことはできる。このレベルなら、あとはスクリプトを用意できれば、英語で十分意思疎通できる発表が可能になると思う。上のレベルまでならコストかければ誰でもできるのではと思うんだけど。 とはいえ、まあ、僕は面白枠なので... せめて英語で発表できますというアドでもないと通せないのかも...。

春休みがおわる

まあ僕は真面目に仕事してましたが…。

珈琲のだの系列、ルジャンでチーズケーキを買って気炎を上げた。

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