ソフトウェアは一人で作れるのに、人に使われないソフトウェアは非常に効用が小さい
pplog で話したことを考えている。 職業人としてのモデルをどうしても父で考えてしまう。父は欄間職人をしており、また兄は日本画を描いている(描いてるのかな?)ので、ものづくりのベースがそこに行き着いてしまう。 彫刻、日本画、ソフトウェア、それぞれ基本的には一人で作れる。 美術的な作品というのは面白いもので、価値の出し方はstaticなものなのかなと思っていて、例えば100年前に作られた絵があって、100年間誰にも顧みられなくて、その絵をたまたま今僕が見て素晴らしいとか、心に残ったら、その絵はそれで価値があったと思って良いだろう。 岡崎立さんという、父の友人で随分前に亡くなられた画家がいるが、岡崎さんは有名というほどではないだろうけど、彼の遺した精緻な鳥の絵は僕が見ても心の動くものだし、何より父にとってはさらに違った意味を持つものなのだろうと思う。 父が作った彫刻がいくつか家に転がっているが、僕にとっては「えも言われぬ良さ」を持ったものであることに間違いはない。同時に、たとえば全然知らない誰かの作品を、たまたま見て、えも言われぬ良さを覚えるということもある。
一方でソフトウェアには基本的にそういう性質はない。 ソフトウェアの価値はdynamicというか、それ自身にあるとは考えにくく、道具として使って人に役に立つという形で価値を与える(道具的価値)。 道具自身に価値があるかは非常に難しくて、有名な議論は柳宗悦から始まる民藝、日々の生活の道具にそもそも美がありますよねという話もあるが、しかしソフトウェアは手触りや形すらない。 ここにおいて、100%自分の求めるものでしかないソフトウェアは、ほぼ価値(効能、と言い換えるか?)が生まれないということになろう。ソフトウェアは頭の中にあるという言い回しがあるが、100%自分の求めるものでしかないソフトウェアであれば、もしかしたら自分の頭の中にしかないかもしれない。そうすると他の人にとって不可知という他ない。 多くの場合、たまたま自分の問題ドメインが、他の誰かの問題ドメインとまあまあ一致して、他の場面でもソフトウェアを使うことができて何かしら価値は生まれるわけだが、「たまたま」に頼り続けていることで作り手は満足するのだろうか。
あるいは手触りや形をソフトウェアに求める向きもあると思う。僕はパタンランゲージ周りの議論、あえて避けてるんだけど、まあそういう...。
ということでソフトウェア作りでは「誰か(できれば、多数の人の共通)の問題ドメイン」を追いかけることになる。 顧客に価値を、とかユーザーディープダイブみたいなのはソフトウェア自身の性質からくる本質的課題に起因していると思った。
じゃあ自己満足のソフトウェアは結局何なのか、については特に自分でも結論はないが、気が向いたらまた書く。