I want a range life...

メモ

例えば縄文土器のようなものがあって、僕は心を動かされるなと思うわけだけど、新しいところは全然ない。むしろその後の時代の陶芸と比べるとものすごく技術レベルは劣る。本気で、あれは土をこねて焼いただけなので。しかしいや、なんかう〜ん、いいね、と言う感情の存在を否定できない(どう言う感じかは、「ヘうげもの」を読もう!)。 こう言うのは想像力の問題で、例えば縄文人の生活に理想を描いて創造して良さを覚えていたりすることが考えられそう。 (そう考えると美術作品も、あるいは例えば小説・詩も、過去の作品なんだから今の人間から見て新しいところってないわけだ。だから新しいこととか新規性を特異的に取り立ててるのが何かおかしいのだろうなあ)

また、例えば僕は息子や娘の作ったもの、図工の作品とかそう言うものでも「良さ」を覚える。これはもちろん、技術に心を打たれているのではない。と言うか、僕や僕の妻や親族でもない限り、そうそう良いとは思わないだろう(いやまあ、子供の絵を見て「良さある」って思うことは間々あるけどね)。 これは関係性がある結果、作った人の感情や背景を想像して共感し、良さを汲み取っているのに近いのかなとも思う。 今鑑賞している私と作者との関係がこのように重要であれば、「自分がやる意味」が重要なのはそれはそうだ。

そう考えると、そもそも美術の良さは、見た人が勝手に生み出していると思う(アウラとかの議論もまあ大きく言うとそう言う感じじゃなかったっけ...)。で、大前提として、美は超個人的なものなのでいいのではと思うのだが。 そして僕のこの論調も、美術を割と矮小化してるような危惧を感じたため、こう、美学ガチ勢や哲学ガチ勢の皆様の高説をいただきたい...。